賀川豊彦21歳の時、神戸のスラムに住み込み活動を開始し、救霊團を立ち上げた。これが後のイエス団へと進化するものであり、全てがここから始まった。
法人設立者賀川豊彦と初代館長吉田源治郎がドイツのベルリンにて偶然にも同宿。セツルメント(隣保)事業の大切さを語り合い、帰国後二人は労働者街であった此花地区に「日本労働者伝道会社・四貫島セツルメント」事業を設立した。同館には天使保育学校・大阪イエス団教会が併設され、社会事業を展開する拠点となった。ここではキリスト教保育の他、無料歯科診療、訪問看護婦による乳幼児の健康指導と共に貧困家庭への牛乳無料配布など先駆的な事業が行なわれ、その後室戸台風で大打撃を受け、戦禍で焼失するまで続けられた。
戦後の復興事業は小川三男が引き受け、此花公園内(現此花区役所)に無償で土地を借り受け「天使児童遊園」を開始、保育所・児童館が建設され、当時此花区には当園しかなく子どもたちで満員の状態が続いた。
徳島から小川秀一が招聘され、全ての事業を引き継ぐ。
現法人所有地を利用して天使保育園春日出分園(現天使保育園)設立。定員60名で事業開始。翌年大阪市私立保育園連盟を結成し、初代会長に就任。その後21年に渡り会長を努め保育界をリードしてきた。文化祭もこの頃から始められ地域の人たちとの良き交流の場となった。
此花公園内にあった四貫島友隣館に対し、宗教活動は困るとの申し出があり春日出分園への合併を余儀なくされた。
此花公園で保育をしていた代替地として現北分園の土地を無償貸与され、天使保育園北分園を建設。2階には寮も作り徳島から連れてきた保育士の住まいも確保もすることができた。
現天使ベビーセンターの建物を新設。
天使保育園の建て替えが行われ、次々と事業の発展に貢献した。
その後の事業を次男の小川居が引き継ぎ、保育園や教会だけでなく大阪市私立保育園連盟の会長を24年に渡り務め、大阪市全体の福祉に大きく貢献した。その後少子化の影響で、定員を減らしてきたものの、時代のニーズにいち早く対応し学童保育や一時保育・休日保育・延長保育・子育て支援事業などの新事業も次々と展開してきた。特に社会福祉法人イエス団・大阪市私立保育園連盟・キリスト教保育所同盟との連携は深く、事業の発展と保育の向上に努めてきた。
小川居が昇天し、四貫島友隣館を小川佐和子が、天使保育園を嶋田良介が、天使保育園北分園を栁本英里が、天使ベビーセンターを山口房江が引き継ぎ、各施設協力関係のもと一体的な運営を行なった。
イエス団憲章・ミッションステートメント2009 策定。
天使保育園北分園 建替え新築と共に、園名を天使虹の園へ変更。
・大阪市より「此花区子ども・子育てプラザ」の運営受託
・子ども・子育て支援新制度スタート
・創立90周年記念同窓会、記念誌「小川居のメッセージ」発行
・天使保育園建替え準備、法人選考委員会の審査
・新保育所保育指針のスタート
・台風21号被害、職員の復旧作業により翌日保育再開
・天使保育園の全面建替え決定、暁明館跡地に仮設園舎建築、建替え記念同窓会
・天使保育園、天使ベビーセンター新築竣工
・天使虹の園 大規模改修外壁補修工事 完了